2年前に母方の祖母が亡くなりました。
今日6月14日が命日です。
自分なりの供養も込めて、今日は「祖母の死に立ち会わない選択」をした話を書こうと思います。
2023年春、専門学校を卒業してほぼ一年、いわゆる「駆け出しの役者」だった私はNYCで毎日オーディションやレッスンに勤しんでいました。
日本にいる家族から祖母がずっと入院している話は聞いていましたが、その年の秋には帰国の予定だったので「ビザがきれるまではアメリカで頑張ろう」という心算でいました。
春の少し前の時点でお医者さんに「もう病院からは出られません。もってあと1ヶ月でしょう」と言われました。
でも祖母は1ヶ月経っても2ヶ月経っても頑張っていました。「このまま奇跡が起きるんじゃないか」と信じたくなるほどに。
でもやっぱり現実はそうはいかなくて。この頃から結婚して関東に住んでいた母親が地元の福岡に帰って祖母の世話と祖母の家の片付け、身辺整理をし始めました。
コロナもあって何年も祖母に会えていなかったこともあり、私は5月の半ばに私は一度1週間ほど日本に帰って祖母と最後にお別れをすることにしました。できれば最期の瞬間とお葬式には立ち会いたいけれどタイミングなんて誰にもわからないし、もう既にアメリカでの生活があって、尚且つ「アメリカで夢を追う」ことのタイムリミットが迫っていた当時の私には1週間を捻出することが精一杯。
予定と飛行機を見繕っていた5月末、ミュージカル、ウエストサイド物語(以下WSS)のオファーが来ました。
ずっと出たかった作品、好条件のギャラ、素敵な劇場、そして東アジア人がキャスティングされることが稀な作品で「これを逃したらもうこの作品に出演するチャンスは2度と来ないかもしれない」という可能性。
母親と話し合って私はそのオファーを受けました。
もう秋までは日本に帰れないだろう、と承知の上で、です。
私はどうしても自分に差し出されたチャンスを諦めることができませんでした。
オファーを受けた数日後、私は荷造りをして劇場のあるユタ州に引っ越しました。
WSSの稽古初日、家に帰ると母親からFaceTimeがかかってきて「ばぁば死んじゃったよ」と言われました。
本当は日本時間前日の夜に亡くなっていたようですが私が稽古初日を前に動揺しないように、と気を遣った母が稽古終わりまで待ってくれていたようです。
「私はこれをやりたい」と単身渡米した時から家族に何かあってもすぐには駆けつけられないことの方が多いだろう、誰かの死に目にあえないこともあるかもしれない、と腹を括っていたつもりではあったのですがやはり「家族を後回しにしてでも追いたい夢なのか」と迷いました。
結局WSSはとてもいいカンパニー、プロダクションでいくつもの賞を受賞したほど評判も良く学ぶことも多く、これから先ずっと大切にしていきたい、そして現に2年経った今でも結びつきの強い沢山の友人と出会えた作品で、自分がした決断に関して後悔はしないけれど病院から出られなくなった祖母に毎日写真を送っていたLINEのトーク画面の「未読」の文字を見ると今でも罪悪感ともう祖母には会えないんだという悲しみで胸がチクリと痛みます。
もうそのトーク画面の先には誰もいないけれど、私が最後に送ったユタの綺麗な自然を見てくれる人はいないけれど、2年経った今でも消せずにとってあります。
それでもやっぱり私はアメリカで夢を追いたいし、過去に戻れたとしても同じ決断をするんだと思います。
もう直ぐアメリカに来て5年目に入りますが、「自分は家族と過ごす時間より自分の夢を取るのか」という問いに対して未だ答えは出ていません。歳を重ねていく両親、大人になって実家を出た弟、家族4人(と1匹)で暮らしていた一軒家に今では両親と犬しかいない現状。「自分はとんでもない親不孝をしているのではないか」「家族は私が日本に帰ってきた方が嬉しいのではないか」「そのうち後悔するのではないか」と怖くて悲しくて申し訳なくて1人で泣くことも沢山あって、でもやっぱり私は今アメリカで自分がやっていることが好きでたまらない。「生きてる」と1番実感させてくれるものを手放すことはどうしてもできないのだと思います。言葉が通じなくて悔しくても、1人で寂しいと感じても、何回オーディションに落ちても、マイノリティとして雑な扱いを受けても、きっと私は自分で「もうやりきった!」と思うまでは泥臭くこの夢に、生活にしがみついていたいのです。
2年経っても祖母より舞台を優先させた罪悪感は消えないし、また似たような状況に陥る不安もずっと抱えていますが、私は自分の納得がいくまでアメリカの演劇の世界で頑張るつもりです。
ばぁば、最後会いに行けなくてごめんね。
でもりんはユタで頑張ったし、これからも頑張るからね。ばぁばの自慢の孫でいるからね。